灯を見送って店へ戻ると、椅子が二つあった。
周は一つを壁際へ戻そうとして、やめた。ギターの椅子と、娘が運んだ椅子。朝まで向かい合っていた二つを、客が来たら使えるように、少しだけ横へずらした。
修理の依頼票を広げる。電気のつかないスタンド、音の出ないラジオ。昨日と同じ仕事だった。窓の外は晴れている。零番線も、もう見えない。
ギターは、作業机の脇に立ててあった。押し入れにしまえば、また長い間、取り出さなくなる気がした。
昼休み、周は朝と同じ曲を弾いた。娘が聴いていたときより、何度もつまずいた。聴く人がいないと、間違いばかり耳に入る。途中でやめようとしたとき、スマートフォンが鳴った。
灯からの写真だった。新しい部屋の窓辺に、青い時計が置いてある。
『こっちでも、動いてる。』
周はギターの弦を一度だけ鳴らした。次に、録音のボタンを探した。長い曲を送る勇気はなかった。一つのコードなら、三秒で済む。
再生すると、弦の音に混じって、店の古い椅子がきしんでいた。周は録り直さなかった。
『こっちも。』
その二文字を付けて送った。
夕方、灯から一枚の絵が届いた。ギターを抱いた自分が、少しだけ若く見える。絵の隅に、小さな空の椅子が描かれていた。
周はそれを印刷して、窓辺に置いた。まだ客に聴かせるつもりはない。店を変える計画もない。ただ次の土曜日、誰かがあの椅子に座ったとき、押し入れを探さずに弾けるようにしておこうと思った。
雨が降らない夜にも、始められることはあった。