父が焼いた卵は、少し焦げていた。
「いつもは、こんなにならない」
「いつも焼いてないじゃん」
灯が笑うと、父も鼻で笑った。昨夜の店にはなかった音だった。八時十二分の列車まで、一時間。二人は急いで仲直りをする代わりに、いつもの食卓へ座った。
父は出発をやめろとは言わなかった。灯も、もう分かってくれたはずだとは思わなかった。机の上には、読まれていない封筒がある。
「絵で、食べていけるのか」
灯は箸を置いた。昨日なら、その言葉でまた立ち上がっていた。
「まだ、分からない」
父は黙って、焦げたほうの卵を自分の皿に移した。
「だから怖いんだよ。でも、やってみたい」
父は、店を始めたときのことを話した。最初の月には客が二人しか来なかった。一人は灯の祖母で、直す必要のない扇風機を持ってきたという。
「知らなかった」
「言ってなかったからな」
灯は父を、何でも直せる人だと思っていた。父にも、直せるか分からないものを受け取った朝があった。
駅へ向かう道で、父が鞄を持とうとした。灯は断って、青い目覚まし時計だけを受け取った。父の手が少し手持ちぶさたになった。
「戻るときは、連絡しろよ」
「失敗したら?」
「用事がなくても」
零番線は見えなかった。灯は、父から封筒を受け取らなかった。父も、それを渡そうとはしなかった。
列車の窓から父が小さくなる。昨夜は言えなかったことを、灯は短いメッセージにした。
『来てくれて、ありがとう。』
送信の印がついた。青い時計は、父のいない町へ向かって、同じ速さで動いていた。