灯は、列車に背を向けた。
封筒を父の机に置こうと思った。手紙の意味を尋ねる自信はない。ただ、父の字で書かれたものを、父に返したかった。
三枝は何も言わず、改札の脇を開けた。階段を上ると、駅前の時計は零時一分だった。往復しても、この夜はまだ終わっていない。
店には灯りがついていた。父は作業机で、灯の古い目覚まし時計を直していた。小学校に入ったとき、父が買ってくれた青い時計。針は何年も前から動いていない。
「捨てるつもりだった?」
父は驚いて手を止めた。
「箱に入っていなかったから」
「持っていくつもりだった。動かなくても」
灯は封筒を差し出した。父は宛名を見て、眉を寄せた。
「俺は、これを書いてない」
「知ってる。たぶん、まだ書いてない手紙なんだって」
父は笑わなかった。壊れたものを預かったときと同じ顔で、封筒の表と裏を見た。それから、開けずに机へ置いた。
「それを読めば、何を言えばいいか分かるのか」
「分からない。違う未来かもしれないから」
雨が店のトタンを叩いていた。灯は、その音に少しだけ勇気を借りた。
「駅まで来てほしかった」
父は小さなねじを、皿に戻した。
「行ってもいいのか」
「来て、って言ってる」
それだけの会話に、二人とも長い時間がかかった。父は時計のふたを閉じると、何時の列車か尋ねた。灯は七時十二分と答え、それからスマートフォンを開いた。
「八時十二分でも、間に合う」
「一時間でいいのか」
「今は、それくらいでいい」
青い時計が動き出した。封筒は、机の上で閉じたままだった。
灯は出発を一時間遅らせた。まだ夜は残っていた。