灯は、駅員へ封筒を差し出した。
「預かってもらえますか」
「届けなくてよいのですか」
「今は、まだ読めない気がするんです」
父に都合のいいことが書いてあっても、ひどいことが書いてあっても、それで出発を決めたくなかった。絵を描く町へ行くと決めたのは、父と喧嘩をするより前の自分だった。
三枝は空の棚に封筒を置いた。受け取りの札には、保管期限が書かれていない。
「言葉を待たせるのも、一つの選択です」
家に帰ると、父の部屋から寝息が聞こえた。灯は起こさずに、冷蔵庫の牛乳へ小さな紙を貼った。
『七時十二分。着いたら連絡する。』
七時のホームには、零番線がなかった。昨日までと同じ線路と、昨日より重い鞄がある。灯は、何度も駅の入口を見た。
父は来なかった。
列車が走り出してから、父を待っていた自分に気づいた。手紙を置いてきたことと、寂しくないことは、同じではなかった。
車窓に雨粒がついた。スマートフォンの画面に、父から写真が一枚届いた。青い目覚まし時計が、父の手のひらに乗っている。
『直った。送る。』
灯は写真を大きくした。父の爪に、いつもの黒い油が残っていた。
「来てほしかった」と打って、消した。「ありがとう」と打って、それも消した。どちらも本当だったから、どちらか一つにはしたくなかった。
列車は次の駅へ向かっていた。白い入力欄には、まだ何も書かれていない。
灯は画面を閉じずに、窓の外を見た。返事を選ぶ時間は、自分の側にも残っていた。